第27話  氏家直綱の「鯛鱸獲摺形巻」   平成26年01月31日  

 文久三年江戸は仙台河岸で釣ったと云う一尺一寸八分の剛鯛(黒鯛)の魚拓が巻頭を飾っている氏家直綱の「鯛鱸摺形」が酒田の本間美術館に残る。この貴重な魚拓の上部に「文久三亥歳孟秋望白未刻 於東都仙台河岸釣獲」と書いてあり、直綱が江戸勤務の時に釣り上げた黒鯛の魚拓であることが分か。
 嘉永6年(1853年)に、米艦隊が来航しペリーが通商条約の締結を幕府に対して強く求めて以来江戸市中のみならず日本国全体が、尊皇攘夷派、佐幕派が入り乱れ世の中は物騒になっていた。そんな中、またしても文久三年(1863)の三月四日英国艦隊が三浦半島に現れた。そこで庄内藩は三月十三日に、万か一の事態に対処すべく応援隊として家中の嫡子、二、三男等二十一名を急遽江戸に向かわせた。案の定幕府からそれから間もなくして四月、譜代の庄内藩に会津藩等と同様に江戸市中の取締りの役が命ぜられた。
 氏家直綱は庄内藩に仕える130石の氏家正綱の嫡子で、この時若干18歳の意気軒昂の若侍であった。非番の時であったろうか、文久3715(新暦8月21日)午後2時に35cm余の1枚の剛鯛(黒鯛)を釣上げて魚拓にした。そして「江戸でも国元(庄内)と同じように黒鯛を釣れた!」と親元に報告している。江戸の釣が一部のお金持ちや無役の旗本等の暇人等の趣味だったのに、東北の若侍は仕事をしながら釣りを楽しんでいるのだから、一風変わり者として見られていたに違いない。